「写真には自分自身が写っている」
私の撮った写真には「富士山」が写っているように見えますか?
…なんて、今回は精神論的なお話です。
写真活動も長く続けているといろいろな壁にぶち当たり、苦悩することになります。
友人によく「好きなことやってるんだから楽しいじゃん」と言われますが、案外そういうわけでも…。
というのも、好き放題に撮るだけならまだしも、写真を仕事にしようと思ったら、全く別次元の話になるんですよね。
「好きを仕事に」は、茨の道です。
その話はまた別の機会にするとして、今回考えたのは「写真」という壮大なテーマについてです。
写真というものに本気で取り組むほどに、「写真って、一体何なんだろう?」という問いに向き合うことになります。
元々は趣味で始めたことですし、写真について(学問として)勉強したことはないので、そのあたりの考え方がフワフワしているのは確かです。
「良い写真とは何だろう?」と考えたことがある人も多いかもしれません。
それもハッキリ言って答えなどない、愚問みたいなものなんですよね。
「良い写真は人それぞれにとって違う」というのが答えだし、自分がいいと思えばいい、というのが持論でした。
この「良い写真論」についてもまた機会があれば書いてみたいですが…。
先日、私の大好きな大山行男氏と撮影で行き会って、長々とお話をしてきました。
今も第一線で活躍している大山さんですが、やはり若手の動向も少しは気にしているようでした。
”インスタ映え”が~なんて話もしたわけですが、そういった中で「写真って何だろう?」というような考えに至るわけです。
そのとき、偉大なる大山先生が放った言葉が、「写真には自分自身が写ってる」という言葉だったのです。
私は、「ああ、そういえば、そうだった。」と我に返って、妙に納得してしまったのでした。
趣味で始めた写真が、徐々に、少しずつではあるものの仕事にシフトしていく過程で、見失っていたものがありました。
趣味と同じスタンスでやり続けていても、それが「売れる写真家」に繋がる道とは限らないのです。
正直「売れる写真」というのもあるし、「売れる写真家」の像もなんとなく見えたり見えなかったり。
本当は全力で自分が楽しいと思うことをして、それが結果としてそのまま仕事になればいいんですが、それは本当に難しいことですね。
仕事ってことは、お客さんがいて成り立つことですから、お客さんに向けて少なからずチューニングを変える必要性が出てくると思うのです。
そのやり方を間違えると、好きだったことを好きであり続けることが難しくなって、根底からおかしくなっちゃったりします。
私の場合は「仕事を頑張ろう」という意識が強くなりすぎて、本来の自分のやり方を少々見失っていました。
具体的には、いろいろあるんですけど。
しかし、「写真には自分自身が写っている」という言葉を噛み締めて、もう一度原点に立ち返るべきと思ったのでした。
そりゃ「綺麗」と言われたり「いい写真」と言われて嬉しくないわけはないんですよ。
でも、昔から褒められることに対して違和感があったりもした。
写真ってそもそも、良し悪しなのか?ってことです。
その違和感は、自分にとってはやはり正しかったと今思っていて、「綺麗な写真」や「人が良いと言う写真」を目指すことは、私にとっては間違っていたかな、という結論になりました。
なぜなら、そこには「自分が写っていない」からです。
自分が良いと思っていない写真には、もはや魂がこもっていないわけで、自分の写真ではないのです。
他人が見て「良い」というものに寄せていったら、写真から自分が抜けていってしまう。
だからもっと、自分の良いと思うものを追求したほうが、最終的にはいい結果になるであろうと思うのです。
ただ仕事としてやる以上は、多少の気遣いとして、人が良いと言う方向に振るやさしさみたいなものは、あってもいいかなと。
芯が残っていれば、多少お遊び(チャレンジ)はアリでしょう。
そんなところも考えながら。
ようは、作品は自分自身であるということ。
自分の好きなものを追いかけていたら、自然と作品には、自分の好きなものだけが現れてくるのです。
意識しなくても自分の色は勝手に滲み出てくると、大山氏も言っておりました。
デジタルの普及で、いろいろな画像補正をかけた作品や、素材を合成してくっつけてしまう作品がある。
人それぞれ好みはあれど、それって、その作者が「見た景色」であるわけなのです。
頭の中に描いたイメージが具現化されて出てきたものが、その作品である。
それを否定してはいけないと思いましたね。
作品にはその人自身が、現れてくるのだから。
あくまで「自分が見たい景色とは違う」という言い方になるでしょう。
だから写真を見ていると、「その人」が伝わってくることが多々あります。
写真には人が現れているから、それを感じる感性を持った人は、写真を見ただけで、その人が見える。
私の場合も逆に、知らない人が寄ってくることがありますが、それは写真を見て私のことをある程度理解しているのでしょう(あと文章)。
「写真にその人自身が写っている」と思って見ると、また写真の見え方が違ってくるのではないでしょうか。
その人が何を考えて、どんなイメージを持ってその映像を見ているのか。
だから本当の深い意味での写真というのは、写真だけでは意味がないのかもしれません。
写真に対して撮影者があってこそ、見方にも色が付いてくる。
写真展や写真集を見るときも、本当に意識すべきところはそこなんでしょうね。
作者がどういう思いで撮ったか、というところです。
作者にカメラやレンズなどの機材を問うことはイケてない、という話を耳にします。
確かにそうだと思います。
せめて「なぜあなたはこのカメラを使うのですか?」って聞いたほうがいいかもしれません。
機材やテクニックにこだわる人は、写真の表面的な部分を見ているということになります。
でも、それが多数派のはずです。機材やテクニックを解説した雑誌などが売れるわけですからね。
私も、写真だけ見て作者の思想を汲み取るなんてことは、そう簡単にはできません…(とくに富士山以外では)。
写真にはたぶん、性格も出てくると思います。
目立ちたがり屋さんは派手に見せたがるでしょうし、個性をアピールしたい人は、人とは違う写真を出してくるかもしれません。
頭の回転が良い人は、見せたいものをビシッと無駄なくフレームに収めて見せるかもしれません。
そうやって、写真にはその人の個性が出てくると思うんですよね。
かくいう私自身の写真には、何が写っているでしょうか…?
それは、いつも見てくれている人ならば、おわかりだと思いますが^^
この話は、また別の機会に書きたいと思います。
つまりは、写真というのは自分の鏡のようなものであって。
性格や考えていること、イメージ、最終的には「生き様」が写っているのだと。
それが出てしまうのが写真。
そして、撮りたくないものを無理して撮っても、人には響かないし、上手くいかないと思いました。
私の写真は決して上手くないし、綺麗でもないと思ってます。
ただ、私の生き様は、写っているかと…
だから「売れたい」からといって作風を変えるのは違うし、自然体で力を抜いてやれば、それが形になっていくのが写真なのだと。
もちろん、現実的にはいろんなことがあるのですが。
魂のこもっていない写真を売ることもあるし、インスタ映えさせるためのテクニックみたいなものもあるでしょう。
ただ、軸としてはやっぱり「自分自身が写っている」と考えるのが、最もしっくりくる、最も楽しい写真との向き合い方な気がしています。
誰の写真が綺麗だとか、誰の写真が人気があるとか、ときにそれも重要なんですが。
そんなことより、「写真に自分の生き様を写し込む!」ってやっていたほうが、めちゃくちゃ楽しいと思うのです。
自分の撮った写真を見返しているとき、「ああ、この時は、こういう狙いがあって撮りに行ったなぁ」とか、「この日は感動して夢中で撮ったなぁ」とか、「ここにたどり着くのに苦労したなぁ」とか、そういう写真にくっついたエピソードが出てくるのが、いい。
それって撮った本人にしか紐付けられない情報で、それを思い起こさせてくれる「写真」って素晴らしいと思うのです。
ああこれが、本来の写真のあるべき姿かなと。写真は誰のものでもなくて、撮った本人のものだと。
この考えを根底に残したまま、仕事とも向き合いたいと思ってます。
仕事においては、綺麗な写真、人気の出る写真などが重要視されて、また別世界となりますが、それはそれで。
もっと写真をパーソナルなものとして見たい。
撮った人と見た人の気持ちが共鳴して、人と人を繋げるツールであったらいいなと思います。
万人に届かなくてもいいし、もっと個性的で、味わい深いものであっていいのかなと思いました。
富士山写真家 オイでした。
…なんて、今回は精神論的なお話です。
写真活動も長く続けているといろいろな壁にぶち当たり、苦悩することになります。
友人によく「好きなことやってるんだから楽しいじゃん」と言われますが、案外そういうわけでも…。
というのも、好き放題に撮るだけならまだしも、写真を仕事にしようと思ったら、全く別次元の話になるんですよね。
「好きを仕事に」は、茨の道です。
その話はまた別の機会にするとして、今回考えたのは「写真」という壮大なテーマについてです。
写真というものに本気で取り組むほどに、「写真って、一体何なんだろう?」という問いに向き合うことになります。
元々は趣味で始めたことですし、写真について(学問として)勉強したことはないので、そのあたりの考え方がフワフワしているのは確かです。
「良い写真とは何だろう?」と考えたことがある人も多いかもしれません。
それもハッキリ言って答えなどない、愚問みたいなものなんですよね。
「良い写真は人それぞれにとって違う」というのが答えだし、自分がいいと思えばいい、というのが持論でした。
この「良い写真論」についてもまた機会があれば書いてみたいですが…。
先日、私の大好きな大山行男氏と撮影で行き会って、長々とお話をしてきました。
今も第一線で活躍している大山さんですが、やはり若手の動向も少しは気にしているようでした。
”インスタ映え”が~なんて話もしたわけですが、そういった中で「写真って何だろう?」というような考えに至るわけです。
そのとき、偉大なる大山先生が放った言葉が、「写真には自分自身が写ってる」という言葉だったのです。
私は、「ああ、そういえば、そうだった。」と我に返って、妙に納得してしまったのでした。
趣味で始めた写真が、徐々に、少しずつではあるものの仕事にシフトしていく過程で、見失っていたものがありました。
趣味と同じスタンスでやり続けていても、それが「売れる写真家」に繋がる道とは限らないのです。
正直「売れる写真」というのもあるし、「売れる写真家」の像もなんとなく見えたり見えなかったり。
本当は全力で自分が楽しいと思うことをして、それが結果としてそのまま仕事になればいいんですが、それは本当に難しいことですね。
仕事ってことは、お客さんがいて成り立つことですから、お客さんに向けて少なからずチューニングを変える必要性が出てくると思うのです。
そのやり方を間違えると、好きだったことを好きであり続けることが難しくなって、根底からおかしくなっちゃったりします。
私の場合は「仕事を頑張ろう」という意識が強くなりすぎて、本来の自分のやり方を少々見失っていました。
具体的には、いろいろあるんですけど。
しかし、「写真には自分自身が写っている」という言葉を噛み締めて、もう一度原点に立ち返るべきと思ったのでした。
そりゃ「綺麗」と言われたり「いい写真」と言われて嬉しくないわけはないんですよ。
でも、昔から褒められることに対して違和感があったりもした。
写真ってそもそも、良し悪しなのか?ってことです。
その違和感は、自分にとってはやはり正しかったと今思っていて、「綺麗な写真」や「人が良いと言う写真」を目指すことは、私にとっては間違っていたかな、という結論になりました。
なぜなら、そこには「自分が写っていない」からです。
自分が良いと思っていない写真には、もはや魂がこもっていないわけで、自分の写真ではないのです。
他人が見て「良い」というものに寄せていったら、写真から自分が抜けていってしまう。
だからもっと、自分の良いと思うものを追求したほうが、最終的にはいい結果になるであろうと思うのです。
ただ仕事としてやる以上は、多少の気遣いとして、人が良いと言う方向に振るやさしさみたいなものは、あってもいいかなと。
芯が残っていれば、多少お遊び(チャレンジ)はアリでしょう。
そんなところも考えながら。
ようは、作品は自分自身であるということ。
自分の好きなものを追いかけていたら、自然と作品には、自分の好きなものだけが現れてくるのです。
意識しなくても自分の色は勝手に滲み出てくると、大山氏も言っておりました。
デジタルの普及で、いろいろな画像補正をかけた作品や、素材を合成してくっつけてしまう作品がある。
人それぞれ好みはあれど、それって、その作者が「見た景色」であるわけなのです。
頭の中に描いたイメージが具現化されて出てきたものが、その作品である。
それを否定してはいけないと思いましたね。
作品にはその人自身が、現れてくるのだから。
あくまで「自分が見たい景色とは違う」という言い方になるでしょう。
だから写真を見ていると、「その人」が伝わってくることが多々あります。
写真には人が現れているから、それを感じる感性を持った人は、写真を見ただけで、その人が見える。
私の場合も逆に、知らない人が寄ってくることがありますが、それは写真を見て私のことをある程度理解しているのでしょう(あと文章)。
「写真にその人自身が写っている」と思って見ると、また写真の見え方が違ってくるのではないでしょうか。
その人が何を考えて、どんなイメージを持ってその映像を見ているのか。
だから本当の深い意味での写真というのは、写真だけでは意味がないのかもしれません。
写真に対して撮影者があってこそ、見方にも色が付いてくる。
写真展や写真集を見るときも、本当に意識すべきところはそこなんでしょうね。
作者がどういう思いで撮ったか、というところです。
作者にカメラやレンズなどの機材を問うことはイケてない、という話を耳にします。
確かにそうだと思います。
せめて「なぜあなたはこのカメラを使うのですか?」って聞いたほうがいいかもしれません。
機材やテクニックにこだわる人は、写真の表面的な部分を見ているということになります。
でも、それが多数派のはずです。機材やテクニックを解説した雑誌などが売れるわけですからね。
私も、写真だけ見て作者の思想を汲み取るなんてことは、そう簡単にはできません…(とくに富士山以外では)。
写真にはたぶん、性格も出てくると思います。
目立ちたがり屋さんは派手に見せたがるでしょうし、個性をアピールしたい人は、人とは違う写真を出してくるかもしれません。
頭の回転が良い人は、見せたいものをビシッと無駄なくフレームに収めて見せるかもしれません。
そうやって、写真にはその人の個性が出てくると思うんですよね。
かくいう私自身の写真には、何が写っているでしょうか…?
それは、いつも見てくれている人ならば、おわかりだと思いますが^^
この話は、また別の機会に書きたいと思います。
つまりは、写真というのは自分の鏡のようなものであって。
性格や考えていること、イメージ、最終的には「生き様」が写っているのだと。
それが出てしまうのが写真。
そして、撮りたくないものを無理して撮っても、人には響かないし、上手くいかないと思いました。
私の写真は決して上手くないし、綺麗でもないと思ってます。
ただ、私の生き様は、写っているかと…
だから「売れたい」からといって作風を変えるのは違うし、自然体で力を抜いてやれば、それが形になっていくのが写真なのだと。
もちろん、現実的にはいろんなことがあるのですが。
魂のこもっていない写真を売ることもあるし、インスタ映えさせるためのテクニックみたいなものもあるでしょう。
ただ、軸としてはやっぱり「自分自身が写っている」と考えるのが、最もしっくりくる、最も楽しい写真との向き合い方な気がしています。
誰の写真が綺麗だとか、誰の写真が人気があるとか、ときにそれも重要なんですが。
そんなことより、「写真に自分の生き様を写し込む!」ってやっていたほうが、めちゃくちゃ楽しいと思うのです。
自分の撮った写真を見返しているとき、「ああ、この時は、こういう狙いがあって撮りに行ったなぁ」とか、「この日は感動して夢中で撮ったなぁ」とか、「ここにたどり着くのに苦労したなぁ」とか、そういう写真にくっついたエピソードが出てくるのが、いい。
それって撮った本人にしか紐付けられない情報で、それを思い起こさせてくれる「写真」って素晴らしいと思うのです。
ああこれが、本来の写真のあるべき姿かなと。写真は誰のものでもなくて、撮った本人のものだと。
この考えを根底に残したまま、仕事とも向き合いたいと思ってます。
仕事においては、綺麗な写真、人気の出る写真などが重要視されて、また別世界となりますが、それはそれで。
もっと写真をパーソナルなものとして見たい。
撮った人と見た人の気持ちが共鳴して、人と人を繋げるツールであったらいいなと思います。
万人に届かなくてもいいし、もっと個性的で、味わい深いものであっていいのかなと思いました。
写真って、自分が良いと思ったものにカメラを向けるし、自分が良いと思ったときにシャッターを切る。
— 富士山写真家 オイ (@fujitomo_oi) January 25, 2018
そもそも自分が見たいと思った景色を見に行くし、残したいと思って撮る。
自分が良いと思うように処理して、良いと思った写真を人に見せる。
だから写真には自分自身が写っている。
富士山写真家 オイでした。
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Posted at 2018.01.25