月のようにも見えますが、太陽です。
朝霧高原から望むダイヤモンド富士。
この日は朝焼けを狙い西側へ向かいましたが、読みは外れて不発に。
曇り空とはいえ、富士山を望みつつ自然を満喫した朝。
その帰り道、ふと富士山のほうに目をやると背後からぼんやりとした輝きを確認。
そうか、「こんな天気だけどダイヤモンド富士が見られるかもしれない」と、撮影してみることにしてみました。
実はこの朝は七面山に登る計画もあったのですが、この天気では行かなくて正解でしたね。
さて朝霧高原でダイヤモンド富士といえば、ふじともマップのDナビ機能を使えば一発で撮影ポイントがわかります。
自分で作ったアプリですが、こういうシチュエーションでは本当に役に立ちます。
マップの指示する場所へ車を走らせたものの、開けたポイントがなかったので、少し場所をずらして。
太陽光が強い場合は太陽が山頂から半分くらい出た状態で撮るのがベストですが、
このようにぼんやりしている場合は少し浮かせるのも良いです。
太陽は右上方向に昇っていくので、浮かせたい場合は撮影ポイントを左にずらすと良いです。
そうしてようやく車を安心して停められる道路際に来ると、
こんどは前景の木々を使って作画するよう工夫しました。
本来は前に遮るもののないような開けた展望が好きなのですが、
ぼんやりした太陽と富士山だけではあまりに味気ないと思い、枯れ木をシルエットとしました。
個人的な考えですが、枯れ木を画面に含めてもなんら作品のメッセージ性は高まらず、そういった意味では不要な被写体かと思いました。
ただ、作画的観点でいうと、枯れ木はあったほうが絵としては引き締め効果があり必要かな、というところです。
写真をどのような目的で、意味合いで撮っているかというところだと思います。
その場の雰囲気や空気、または写真を通して何か伝えたいものがあるのか。
それとも映し出された映像を楽しむのか、絵を作ることでアート表現をするのか、というところで同じ「写真」とは言っても全く意味合いが違うのかな、と考えました。
アップロード日: 2017年3月23日